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社長ブログ

2007.10.13

ウエダ再興記⑦~遮二無二働く

ウエダ再興記

その頃は特に遮二無二働いていたと思います。

通常でも夜の10時には機械警備になるので、絶対に退出しないといけない様になっていましたが、仕事が終らない為、朝から夜10時まで悲壮感漂う形相で仕事をしていましたし、入社3年目頃に土曜日も休みになりましたが、瀧定を辞めると決めるまでは殆ど土曜日も休んだ事はありませんでした。
それに加えこの頃は、特に全く相手にしてくれないどころか、来てくれるなというアパレルを開拓しないといけませんでしたので、何とか話を聞いてもらう為に、日曜日は、その開拓したいアパレルの店の観察に費やしていました。

瀧定の厳しさを実感した出来事で、ウエダにも関係する話をしますと、丁度私が入社一年目にウエダの創業者である私の祖父が亡くなったのですが、その日は土曜日で3時迄の営業でした。
祖父が亡くなって通夜にいくのに7時迄仕事し、部長にすいませんが祖父が亡くなったので、お先に失礼しますと大変恐縮して帰りました。
会社を出た後、祖父が亡くなって帰るのに、しかも3時迄営業で7時に帰るのに、何故こんなに恐縮して帰らないといけないんだと思いましたが、それでも悪いと思うくらい、皆思い切り仕事をしていたのです。

ですので、他の会社に出入りしたり、今までウエダに来てからでも、忙しいという事を聞いたり、同じ10時までやらないと終らないと言っていたりしても、表情を見れば直ぐ分かるというか、瀧定では、皆何かに追われて仕事をしている様に切羽詰って10時迄働き、休日も働いていましたので、全然甘いな~と思ってしまいます。
これは社員に対して厳しくなってしまうマイナス要因かもしれませんが・・

課別独立採算であるので、どこの課も主には東京担当、名古屋担当、大阪神戸担当に分かれているのですが、東京や名古屋の担当は毎週火曜日の夜から出張に出て、金曜日の夜に帰ってくるという生活でした。
私はその商社の中で生地(テキスタイル)のレディース部隊におりましたので、生地サンプルを毎週持って販売しに廻っていました。
今の様にキャリーバックはありませんでしたから、15kgもある荷物を持ち、毎週数十人で新幹線で出張に行っていました。
毎週火曜日の夜の最終近くの新幹線は15kg程入ったカバンが車両の間に数十個も置かれ、東京に着けば夜中の12時過ぎに重い荷物を持った軍団が割と近距離でタクシーに乗るので、タクシーにも嫌われ、かなり有名な団体だったと思います。

毎週出張と言っても厳しい、泥臭い会社ですから、ホテルに泊まれるわけでもなく、東京の場合は浜町の明治座前にある連絡所という自社ビルで皆寝泊りします。
6帖の部屋に3人、他の課のおじさん方と布団を並べて寝泊りするのです。
営業も車などは一台もなく、交通機関かもしくは自転車、それも豆腐屋さん(と言っても若い人は分からないでしょうが)の様な黒い頑丈な自転車が各課で2台程割り当てられているだけ、表参道でもその黒い頑丈な自転車で疾走するわけです。

そんな調子で毎週金曜まで働き、金曜日の夜に新幹線で帰ってくるという生活なのですが、この頃は殆ど帰りも最終9時(東京発)の新幹線で、何度か階段を重い荷物も持って駆け上がったら、無情にも最終の新幹線が発車して行った事もありました。

それだけ一生懸命働いていた私ですが、ある時どん底に落とされてしまいました。
この経験が実際のビジネスにおいての考え方に大きく影響をしていると思いますが、
この話は次回にさせて頂きます。

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